デザインのシュウカクサイ|グローカルデザインの種をまく
対談採録 vol.1 “「人の手」の感触を求めることで、デザインはピュアなものづくりへと変容していく”
対談=中原慎一郎+服部滋樹
日時=2008年11月15日[土]14:00−15:00
会場=東北芸術工科大学本館ラウンジ特設会場
1. 経済の崩壊が協働の可能性を拓く |
●Profile |
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服部 | 僕らgraf(グラフ)は1998年に大阪の小さなショールームからスタートしました。バブル崩壊から3〜5年経った時期です。そのときは、不動産はもちろん、デザイン業界をとりまく経済や生産システムがすべて崩壊したような状態でした。 バブル以前はメーカーがいて、生産者がいて、ユーザーがいるという縦の構造で商品が流通していて、大量生産・大量消費のためにフル稼働していたのですが、バブルとともにその仕組みが瓦解してしまった。そういう状況下で、ものづくりをしたいと考えていた僕たち若い世代は、どうやってデザイナーとして暮らしていけるのか考えていました。 当時、大阪に集まった6人はアルバイト先の仲間で、アンティーク家具のリペア(補修)の仕事をしていたのです。家具職人とかプロダクトデザイナーとか、シェフをやりたい人たち。バブルも崩壊して就職口もなかったし、もう自分たちで一からものづくりをしていくしか生きていく糧はないという話になった。それで僕が「少年探偵団みたいな集団つくりたいねん」と言ったのがgraf結成のきっかけです。 少年探偵団というのは、分厚いメガネをかけた人がハカセ君になり、難しい計算式を解いてくれて、図体のでかい子が特攻隊長になったりするという、それぞれのスキルを生かした集団をつくるというコンセプトで、僕は建築やインテリアのデザインを監修して、プロダクトデザイナー、映像作家、あとは大工さんに家具職人、そしてシェフですね。この6人で衣食住を兼ねた空間をつくりました。 |
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中原 | 最初から服部君が全体をディレクションするようなスタイルだったの? | ||
服部 | 最初に「少年探偵団」と言っただけですけどね。それに賛同してくれた人たちがgraf立ち上げ時のメンバーです。 | ||
中原 | じゃあ続いて僕たちLandscape Products(ランドスケーププロダクツ)のはじまりについてお話しします。僕が東京に出てきて就職したのがイームズ(注1)のヴィンテージの椅子などを輸入販売する会社で、7〜8年働いていたのですが、そこに僕の大学の後輩に当たる家具職人の川畑健一郎がいつもたむろして、イームズのデザインについて色々と語り合っていた。95〜6年頃ですね。 当時はイームズの椅子がものすごく売れているときで、4〜5万円するような椅子が週に何百脚という脚数で売れるイームズ・バブルで、その中で僕は毎日、椅子を洗ったり組み立てたり修理したりするうちに、だんだんディティールや構造を覚え「自分でものをつくりたい」という気持ちが高まっていったのです。横に職人がいたので、あるときから夜な夜な彼の働いていた木工所に忍び込んで家具をつくることを、怒られるまでずっとしていた。それが僕のものづくりのルーツですね。 僕たちは二人とも鹿児島の生まれなのですが、いまはうちの工場(Factory1202) を任せている川端が先に鹿児島に戻り、自分で木工所をはじめ、そのあと僕が1998年に会社を辞めて独立して、Landscape Productsという会社をはじめました。 |
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服部 | それわかる。情報だけじゃなくて体験するというのは大事だね。頭で覚えるのではなくて体感から、自分にフィットしているかどうか判断できるようになる。脳も体も喜んで、「これは自分の天職かも」と思うようになっていくよね。 98年頃って、バブル崩壊を経験として踏まえて、社会のみんなが「何がいちばん正しい形なのか」ということを模索していた時代だった。僕らのような若いデザイナー集団って他にもいて、 東京だとエグジット・メタル・ワーク・サプライ(注2)という鉄ばかり扱うアーティスト集団がいて、同時期のロンドンではTomato(注3)、スウェーデンに行くとスノウクラッシュ(注4)や、ヴァルヴォモ(注5)というプロダクトのチームがいたりとか。社会経済の低迷したときが自分たちで何かをはじめるいいタイミングだったのかもしれない。『バブルの落とし子』と自分では言っているのですけど。 |
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2. ショップから生まれるコミュニティ |
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中原 | 僕らの場合は、比較的はやい段階からつくったものを見せる場をお互いに持っていたでしょう?それも大きかったと思う。僕はものを探したりつくったりするのはもちろんだけど、売るまでの経過を話しながら接客するのが好きだったから、まずショップありきで会社をはじめた感じがあった。 もともと鹿児島の実家が自営業で、弁当の仕出し屋をやっていたから、家の裏の厨房で料理をつくり、それをお店で売るという流れが自然に染み込んだのかも知れない。内装とか、カフェをはじめた流れもそう。つくることと売ることを離して考えられなくて。 |
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服部 | 「人に伝えたい欲求」から物事がはじまったほうが、ものづくりってピュアになれそうな気がするよね。「人・事・物」という言い方をする人がいるじゃない? 僕はその順番だったら正しいと思うけど、「事・物・人」とか、順番が違うだけで大きくものの伝わり方が変わる気がする。人ありきで「事」が生まれ、事のために「物」が生まれるというつながりがいちばん正しい。きちんと伝えるための場所としてカフェやショップを大事にしたいよね。 | ||
中原 | 建築の設計を手がけるときも、最初に人に会ったときにだいたい相手が求めているものとか、イメージが固まるでしょう? | ||
服部 | そこからはじまるね。例えばバブル期の行政の建物で、「事」の内容が決まっていないのに予算の関係上、今期内で使い切らないといけないから建築だけは大きいものを造るけど、ランニングのためのソフト開発がないケースがよくあった。 ハードは完成しても肝心の使う人たちのことを想定していないから、建築という「物」だけが余っていく状態は、たぶん大量生産、大量消費と同じような仕組みじゃないかな。はじまり方が矛盾を抱えたままだと、結局ピュアなデザインにならない気がする。それを教えてもらえたのもバブル期を経て、いまの時代になったからだよね。僕らのやってきたものづくりの方法論は昔はあまりなかったよね? |
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中原 | なかったけれど、そんなに特別なことじゃない。 | ||
服部 | そう。新しいことじゃない。素直にできたことだと思う。 | ||
中原 | そのときの自分たちの事業規模というか、体力的なものでそうせざるを得ないこともあったし。例えば受注生産もそう。 | ||
服部 | 受注生産って本当にすごい仕組みだと思う。お客さんを待たせないように商品をちゃんとつくってストックしておいて、お客さんが来たら即座に商品を渡すというのが普通の商売のやり方。でも受注生産ならつくる側はストックしなくてもいいから、お客さんに「いま丁寧につくっている最中なのでちょっと待ってください」と言うだけで、無駄にものをつくらなくて済む。しかも僕らは最初からお金を持ってないので、ものづくりからはじめられる仕組みはすごくよかった。お金ありきじゃなくて、ものづくりからスタートするとストーリーまで生まれていく気がするよね。 | ||
中原 | 配達や設置まで自分たちでやるから、届けた先でさらに仕事の話が展開したこともあるし。その辺が小さい単位でやっている事の楽しさではあるかな。 | ||
服部 | 僕は「コミュニティ」って大事なキーワードだと思っていて、例えばミクシィ(注6)もウェブ上のコミュニティじゃないですか。あれは一つの指向や価値を共有する人たちが集まる場所でしょ? 昔は老人ホームとかをコミュニティスペースって呼んでいたけど、いまは同じ価値基準で集まったグループのことをコミュニティという。その共有のあり方がこれからはすごく重要な時代になると思う。膨大なストックや倉庫を抱える大量生産・大量消費の買い方や考え方ではなくて、目の前にいる人たちがどういう価値基準を持っているかとか、どういうつながりを望んでいるかを注視して、その人たちのためにものをつくるという考え方だね。 僕たちは直にショップに立って、来てくれるお客さんの顔を見るわけだから、その人の求めている価値はリアルにわかってくる。そのつながりがどんどん広がってコミュニティ化していく。たぶん中原さんのところでも自分たちの知らないところでLandscape Productsを一つの核となる価値観にして成立しているコミュニティもあると思うよ。 |
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中原 | そうだね。だからこそスタッフも含めて自分のものづくりのコミュニティも、目の届く範囲内でコンパクトに動けるようにしておきたい。人を雇うとき、「自分と同じ体験をさせたい」という考えがまずあるから、入社したての社員でもはやい段階で海外に連れて行って、同じ場を見せて同じ経験をさせることによって、ちゃんと嘘のない接客ができるようになる…とかね。 ショップで扱う製品をセレクトするとき、見本市に行けば済むわけではなくて、人のつながり、人との出会いが決めていくケースがほとんどだから、実際にその人に会わないとなかなかうまく売れない。そのためにスタッフには僕と同じ体験をしてもらわないといけない。自分でつくって仕入れて接客してと、全部一人でやりたいとも思うけど、それだと会社自体が回らないからちゃんと任せられるような経験をさせたいと。でも人を雇っていると「任せる勇気」が必要になってくる。それってすごく難しいことだよね。 |
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服部 | わかる。言葉で説明してもなかなかね…。やっぱり同じ体験を共有していないと伝わりにくい部分はどうしてもあるよね。以前、養老孟司(注7)さんと話をしたとき、すごく面白いことを言っていた。養老さんは何十年も連れ添っている嫁さんとよく喧嘩をするらしくて、あるとき「俺は何でこんなに嫁さんと喧嘩するのか?」と自問した。よく考えると嫁は嫁でああいう性格で、この年齢まで一緒に生きているのに、何で俺は「こうしてくれ」とか、「料理が辛い」とか言ってあいつを変えようとしてしまうのか。もしかしたら俺が間違っているのかと思った。するとその瞬間に嫁との関係がリスクヘッジできたと。 | ||
中原 | そういうことはあるよね。僕らがお客さんに全部ダイレクトにものの良さを伝えているわけではないから、そのコミュニケーションの想像力はすごく重要。 この間、知り合いの編集者と、スタッフにどうやって仕事を教えていくかという話になった。すると彼は、「父親と子どもの関係にならないようにしている。ちょっと遠まわしに教える“おじさん”みたいな役割がちょうどいい」と言っていた。男親と息子とか、親子関係になってしまうと逆にお互いになんとなく言いづらくなるけど、「おじさん」ってある意味無責任な存在で、「タバコ吸ってみろ」とまでは言わないにしても、大人の知恵を遠まわしに教えてくれるようなところもあるから。 |
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服部 | すごいそれ! いい話だね。俺も使おうそのフレーズ。 | ||
中原 | それでも叱らないといけないこともあるでしょう? その叱り方なり指示の仕方を、ものづくりの進行とともに自分なりの方法として身につけなきゃならないね。 |
3. 伝統工芸が「デザイン」を健全化する? |
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中原 | このあたりでF/styleの話をしておこうかな。二人との出会いはPlaymountain(プレイマウンテン)(注8)の店長の方が先で、僕はわりと後になって彼女たちのものづくりの話を聞いた。ちょうど民藝(注9)にすごく興味をもって仕事をしている最中だったから、若い二人組みが新潟で何かやっているという情報に惹かれて、実際にお会いして。それからショップでマットの取り扱いをさせてもらった。それがこの縁のはじまりかな。それまであまり北陸の方に行った事がなかったから、彼女たちとの出会いに新潟のイメージをつくってもらったみたいなところがあった。 | 注8 Playmountain(プレイマウンテン) |
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服部 | 美しいね、それ。入り口がいいよ。 | |
中原 | 彼女たちの話題に辿り着いたところで、今回のイベントのテーマにもなっている「地方のものづくり」について少し話をしたいと思います。ちょうどいま、服部君と一緒に鳥取県から呼ばれて、地元のいろいろな工芸家の人たちと一緒に工芸のイベント『トットリノススメ』(注10)を開催しています。そこでも感じるけど、最近、工芸の領域がデザイン業界で注目されているよね。 | |
服部 | そうだね。工業製品がアノニマス・デザイン(注11)と呼ばれるようになり、もう一度デザインにプリミティブな手触りが求められている。「デザインは様々な問題を解決するためのもの」という考え方もあるけど、僕は100パーセントの答えは出せないと思う。例えば器であれば機能的のために薄いほうがいいとか強度も必要とか、用途によっていくつかの答えは出せても、それはトータルな解答ではない気がする。 それで、僕らがどうして地方の工芸品やクラフトに惹かれるかというと、そこにきちんと人の手が携わっているからだと思う。単純に手づくりによる温かみとかだけではなくて、「安心」だったり「安全」だったり「信用」だったりね。 |
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中原 | 確かに。イームズが「ある問題に対する解決手段の一つとしてデザインを用いる」と言っていて、僕は自分が家具やインテリアをデザインするときに、必ずこの言葉を頭に浮かべるようしています。自分のデザインに、よい工芸が持っている健康的な部分が作用して、前に進むための解決策をもたらしてくれると感じています。 僕は沖縄の器がすごく好きで、あるとき窯元をいろいろ回って地元の工芸家と話をして、自分たちの作品カタログを見せたら、「すごくかっこいいけど、鹿児島でつくっているのに風土感がないよね」と言われて、ハッとさせられたことがあった。 それまでは服部君が言ったように、薄くて軽いだとか、プロダクトデザインとして洗練されていることにこだわっていたけど、そのときを機にものづくりの考え方が変わった。それから民藝運動のことも詳しく調べるようになったし。デザインの効能って、そのあたりにあるかなと思って。 |
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服部 | 「風土」って重要かもね。ものが生まれる必然性は、それぞれの土地の風土にしかないのかもしれない。それぞれの地域に根ざした民俗や風習に、信用できるピュアでプリミティブなものづくりのアイデアが宿っていると感じる。 例えば山にすごくおいしい山菜が生えていて、普通ならば竹籠を担いで採りに行くけど、そこの山の山菜は繊細で竹籠だと傷がついたりして灰汁が出ておいしくなくなっちゃう。そのときに竹籠ではなくて新しい絹の袋が、その山の山菜のために生まれてくると。その袋はそこの風土に馴染んだもので、生まれる理由がはっきりしている。だから「正しいかたち」だと。 みんなね、地方でものづくりについて考えるとき、すぐ「ブランディングする」って言ってしまうけど、あれは必ずしも問題解決にはつながらないと思う。例えば僕が「ブランディングにはコンセプトが必要ですよね」と言ったら、「じゃあコンセプトをつくりましょう」となる。でも、コンセプトはつくるものではなくて、拾い出すものだと思う。それが風土の中にどのように眠っているか。産地の歴史の中で埋もれているのを見つけ出すことが、正しいコンセプトの見つけ方じゃないかな。それさえ見つかればそれを適正にデザインしてあげられるし、それに伴った流通システムを考えてあげられる。 |
4. 同じ価値観のものづくりで、世界とつながっていく |
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中原 | いま、服部君が「拾い出す」と言ったけど、僕も最近ルーツ探しみたいなことをしています。そもそもLandscape Productsは鹿児島のファクトリーで家具をつくっているのに、鹿児島に売る場所がないのはおかしいなと思ってショップ『DWELL
Playmountain(デュエル・プレイマウンテン)』をオープンして、ここ1年くらいかな、そこをベースにして人と会ったり、薩摩焼の歴史を調べたりして、すごく楽しんでいます。時代も僕自身もそういうタイミングに差し掛かっているなという感じがしている。 今回の展示品の中に林檎の形をしたシュガーポットがありますが、これは僕の鹿児島めぐりでもらったご縁がきっかけで生まれたもので、薩摩焼の中でも苗代川焼にある窯元・沈壽官(注12)の陶器です。沈壽官は豊臣秀吉の朝鮮征伐の頃に島津によって朝鮮半島から連れてこられた陶工です。そこから15代目に当たる方からお話をいただいて、薩摩焼の技法を使って新しいものづくりに取り組んでいる最中なのだけど、沈壽官のことを司馬遼太郎の本などで知っていくと、自分がデザインするにはあまりにも歴史のある会社だし、先方にも僕らがデザインすることに対しての拒否感があって悩んでいた。でもあるとき、キム・ヘギョンさんという陶芸家とロンドンでたまたま出会って、彼女の器にほれ込んでいて一緒に仕事をするうちに、彼女のお父さんが法政大学で沈壽官の研究していることがわかった。その縁をつなげて、キムさんが沈壽官の新しい器をデザインした。そんなふうに縁をつなげるものづくりをスタートしています。 鹿児島と東京という二つの土地を抱えたいま、改めて服部君に聞きたいのだけど、grafの登場が面白かったのは、いきなりイギリスのデザイン誌『Wallpaper(注13)』に掲載されたりしていて、大阪とロンドンを行き来して仕事をしているように見えていたから。いままで当時のことを聞く機会がなかった。どんな様子だったのかな? |
注12 沈壽官(ちんじゅかん) |
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服部 | 単純に東京よりもロンドンの仕事のほうが先に来たからね。はじめから自分たちが思っているものづくりに共感してくれる人たちを、日本国内で探すのは難しいと思っていたところがあったね。だからまずは自分たちのセンスを表現してみようと、ショップやカフェや工場をスタートさせて、大阪で「こんなことができるんです」って手をあげた。 もしこれに共感してくれる人が世界中にいるとしたら、その人たちとどうやって長く生きていくかを考えたほうがいいって思っていた気がする。そしたらイギリスから『Wallpaper』が来てくれて、ロンドンの仕事の依頼が来て、そのおかげで中之島に事務所を持った。意図していたわけではなかったけどね。 |
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中原 | 僕は東京に出たけど、3年前から『ニューヨーク・インターナショナル・ギフト・フェア(注14)』に招待してもらえるようになった。でもそこでは、日本でのものの売り方や伝え方がなかなか通用しなかった。もちろん家具や食器のサイズが違ったりするし、日本だとカトラリーはばらばらに売ることが多いけど、向こうだとセットで売るとか。そういうズレを感じながら参加し続けることで気付いたことは、ものの見せ方も大事だけど、流通の仕組みもトータルでデザインする必要があるということだった。 それで一昨年から服部君のgrafにも参加してもらって、『For Stockists Exhibition』という試みをはじめました。一般の人は入れないバイヤー向けのクラフトショーで、3年前は個人も含めて七社くらい、その翌年にF/styleの二人にも声をかけて、18社くらい集めて徐々にひろがって、今年は池袋の自由学園明日館(注15)という、フランク・ロイド・ライト(注16)の歴史的な建物で、37社になった。会場が狭かったのに何千人も人が集まって盛況でした。 |
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服部 | あのショーがよかったのは、単に使ってもらう人たちの関係性だけではなくて、同じものづくりの考え方を刺激したり共有しあえる仲間たちとの出会いの場になっていたじゃない? | |
中原 | そうだね。しかもみんな地域性がにじみ出ていた。それもすごく面白いと思っていて、例えば北欧やアメリカのプロダクトを仕入れて売っている人もいるけど、その土地固有のものづくりに自覚を持った人たちもたくさん出展してくれるようになってきた。それもただ単純に地方の伝統工芸のものをアレンジするのではなくて、若い人たちが一生懸命に「その土地のお店」として新しい形を模索している感じがいい。少し悶々としながら出しているところがね。それがすごくいい収穫だったと思ってます。 | |
服部 | ものづくりを根本的につくり変えていきたいと思っている若い人たちが出てきている。それってすごく未来があると思う。単にデザインコンシャスなものに囲まれた生活よりも、もうちょっとデザインに「人」にちかい感触を求めている人たちがいることがわかって、やってよかったと思えるね。 まだ僕らに解決しなければならないことは山ほどあって、同じような想いを抱えている人はたくさんいるだろうから、みんなで力を合わせられたらいい。さっきのコミュニティの話じゃないけれども、今日のこの会や『For Stockists Exhibition』みたいな場に来て、手をあげることからはじまると思う。そうすればデザインを通して理解し合える人たちと出会い、一緒に生きていく方法が見つかるかもね。 |