日本で最も長い歴史を持つ博物館、東京国立博物館(以下、東博と略)。日本を中心として広くアジア諸地域にわたる文化財を収蔵し、年間を通じて数多くの展覧会を開催しています。芸術学科?文化財保存科学コース2類 古典彫刻修復専攻(現?文化財保存修復学科 立体作品修復)を経て本学大学院修士課程へと進み、文化財保存修復への学びを深めた野中昭美(のなか?てるみ)さん。現在は東博の保存修復室の研究員として活躍しています。強い信念を持って継続することの大切さと、文化財の保存修復という仕事の魅力について、お話を伺いました。
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ものを修復しながら、過去の人たちと時代を超えて対話する
――はじめに、現在のお仕事について教えてください
野中:東京国立博物館の保存修復室で研究員をしています。当館は規模が大変大きく、約12万件の文化財を所蔵しています。そのため、それらの作品を安定的に保存、展示、活用するために保存修復の部署があります。私が所属している保存修復室は、作品に生じている劣化や損傷問題を解決するために、保存方法の改善や直接触れないとできない処置に関わる部署で、その中でも私は、彫刻や工芸、考古作品など、立体作品全般の対応を担当しています。保存修復の調査研究はもちろんですが、展示予定の作品を調査して処置することもありますし、作品をどのように修復計画に乗せていくかを相談したり、外部の保存修復専門家とのマネジメントやその修復作業の監督を行ったりしています。
修復処置を施すということは、少なからず作品に変化をもたらします。解体が必要な場合は、作品にとっては大手術するのと同じなんです。本来はできるだけ修復しない方がオリジナリティを維持できる。ただし、根本的に損傷原因を取り除く処置をしないと保存や展示活用ができない作品もあります。また、大型作品の本格的な修復となると大きな予算が必要となり、3年以上の長い期間を設けて行う場合もあります。そのため、作品の状態を見て、最小限の処置で安全に維持できるか、もしくは、解体をする修復が今必要か、館全体の作品の状況も考えながら作品担当者と方針立てしていくことが大変重要になってきますね。
2022年に創立150年を迎えた東京国立博物館。文化財の所蔵数では日本最多を誇る。
――保存修復の仕事で一番惹かれる部分や魅力はなんでしょうか?
野中:ものをよく観察して、ものの状態を把握し、ものに触れて問題を解決していくという「もの」に対する仕事ではあるのですが、結果的には全て「人」との関わりになると思うんです。修復って、過去のことを考えながら今ある状態を見て、将来に向けて関係する方々と話し合い決断をしていくマネジメントの仕事でもあるんですね。昔の人たちの工夫であったり、いろんなことを読み取りながら、現状に対してどんな判断をし、次の世代に向けてどうやって遺していくかといったように、ものとその背景を広い時間軸で見たり考えたりする分野でもあります。一点一点が違うので、当然ながら決まったマニュアルは存在しません。その都度調査研究し、最善の処置は何か、今何ができるかを考える、これが面白さの一つではあります。
ただ私はそれ以上に、人とのコミュニケーションが大切だと思っていて、それは今生きている人はもちろんのこと、時代を超えて、作品に関わった多くの人々が含まれます。修復処置をしていると、過去の人たちに触れているような感覚があり、さまざまな時代の人たちと心で対話するような作業でもあるので、そこは何にも代えがたい魅力です。
――野中さんがこの世界を志したきっかけや、興味の入り口についてお聞かせください
野中:建具職人の祖父や景色を描きに連れて行ってくれる母が身近にいて、私自身も手を動かすことが好きでした。振り返ると祖母が信仰心の厚い人だったので、お寺の仏像が修理から戻ってくるときにお参りに連れていってもらったこともありましたね。中学校の美術でエッチングの授業があったときも、選んだ題材が仏像だったりして、幼少期の原体験が自分の中にあって、何かしらの魅力を感じていたのだと思います。
美術はずっと好きでしたが、高校時代は進学校の理系のクラスにいて、部活動はソフトボールをやっていました。運動も得意な方ではあったのですが、いずれも進路を考えるときに就職につながらないリスクがあるからと親に言われていたこともあり、当時は自分の中でピンとくるものがないまま大学受験を迎えました。そんなとき進学情報誌をパラパラとめくっていたところ、仏像彫刻の保存修復を学べる大学があることを知り、それが芸工大でした。興味のある分野がピンポイントだったこともあり、ほかを探すでもなくここに行きたい!と親に頼み込んで翌年に受験しました。
――その後はどのような経緯があり、今のお仕事に就かれたのでしょうか?
野中:芸術学科?文化財保存科学コースで学んだ後は、国宝の仏像修理を手掛ける修理所の試験を受けることも考えたのですが、研究を続けたいという気持ちが強くなっていたんです。そのため、大学院の芸術文化専攻 保存修復領域に進みました。大学院修了後は、博士課程の進学を考えたのですが、進学が叶わず思い悩みました。そんな時に、地元岩手の安代漆工技術研究センターで2年間、漆の精製技術と漆工技術をみっちり学ぶ機会を得ました。その後は芸工大の文化財保存修復研究センターの研究施設がキャンパス内に整備されたタイミングで声をかけてもらい、研究補助として作業を手伝ったり、恩師である牧野隆夫(まきの?たかお)先生※1の工房のお仕事を手伝わせていただいたり、当時芸工大の立体作品修復の教授であった藤原徹(ふじわら?とおる)先生※2のお仕事に関わらせていただいたりと、さまざまな先生方に支えていただき経験を積ませていただきました。そのうちに無理がたたって体調を崩してしまい、実家に帰ることになってしまって。少しの間休養し、地元の博物館の臨時職に就いたりしたものの、そろそろ修復の仕事は諦めようかと考えるようになっていました。
※1:保存修復家。吉備文化財修復所代表?東北古典彫刻修復研究所所長。2003年度まで美術史?文化財保存修復学科(現?文化財保存修復学科)で教鞭を執る。
※2:保存修復家。文化財修復工房明舎代表。本学文化財保存修復研究センター客員研究員。2017年度まで美術史?文化財保存修復学科(現?文化財保存修復学科)で教鞭を執る。
そんな矢先、もりおか歴史文化館の学芸員の募集があって応募したところ、合格することができたんです。もりおか歴史文化館には4年勤めて、もうこの仕事に落ち着こうとも考えていたんですが、今度は東博のアソシエイトフェローの募集があると聞いて。これが保存修復の分野に戻る最後のチャンスになるはずと覚悟を決めて受験したら、採用の通知をいただき、今の正規職につながる時間をいただきました。
選択肢は一つではない。貪欲かつ柔軟なスタンスで
――大学時代の学びや経験がお仕事に生きていると感じることはありますか?
野中:芸工大のカリキュラムで言うと、先生方が網羅的に授業をされていると思いますし、在学中に学んだ基礎と卒業後に働きながら積んだ経験はそのまま生かされています。現在の文化財保存修復学科には宮本晶朗(みやもと?あきら)先生※がいらっしゃるので、こうした分野についても深く学ぶことができるはずです。私は7期の卒業生ですが、当時は古典彫刻の保存修復家である牧野先生に教えを受けました。文化財に関わるときは、ものに対する敬意と護ってきた人に対する敬意が大切であるということを、牧野先生から学びました。文化財に関わる人にとって、最も大切な姿勢だと思っています。第一線で活躍されている先生から学べたのは、社会人になった今考えると、とても貴重な時間だったと感じます。先生方の広い視点とまっすぐに教えてくださる姿勢から、たくさんのことを学びました。今は先生方と現場で仕事をご一緒させていただく機会もあり、私にとってはとてもうれしい時間です。
※文化財保存修復学科准教授。保存修復家。詳しいプロフィールはこちら。
――芸術学科?文化財保存科学コース(現?文化財保存修復学科)の特徴を教えてください
野中:まずは実践的な授業で言うと、仏像などの日本彫刻の修復をするには木彫を理解できていなくてはならないので、彫刻をするために必要な、刃物を研いだり砥石を整えたりもできるようになる必要があります。そのため、必要な技術の基礎をみっちり学びます。造形や材料を理解するために模刻することも一つです。また、材料も伝統的なものから現代のものまでを用いて、道具も既製のものだけでは対応できない時は、自分たちで作ったり、他のいろんな分野のものを応用したりもします。修復というと、例えば単純に「割れたものをくっつければいいんでしょ」と考える人もいるかもしれませんが、文化財を適切に修復し保存していくためには、文化財の構造、技法、材料的なことをきちんと理解することがとても重要です。だから制作技法、保存科学、科学的な理解による修復手法、いずれも学ぶ必要があるんですね。
在学中から社会との接点を肌で感じられるのも貴重だと思います。私自身も調査に同行させていただく中で、予算をかけて修復しても、その後、地域の人たちの文化財への認識が薄れていってしまったら伝えていけず、50年後、100年後まで遺すことが難しいといった現実があることを知りました。
今の時代はどこも観光に力を入れていて、文化財の活用が強く謳われる時代になっています。保存修復の考え方の中に「予防保存」という言葉がありますが、修復以前に保存環境を整えること、つまり、その保存する環境そのものの地域や人の認識が豊かになっていかないと、観光資源の活用や保護にはつながりにくい現状があります。そういった意味で、芸工大の文化財保存修復学科や文化財保存修復研究センターの存在は、山形はもちろん東北にとっても貴重なのではないでしょうか。
――保存修復の分野を目指す受験生へのメッセージをお願いします
野中:私は今、博物館で自分の専門分野を生かした職に就けていますが、それ以前にはアルバイトやフリーランスとして働いていた時期もありましたし、いろいろな文化財に関わる仕事の仕方を経て、30代半ばになってようやく自分のやりたい仕事に近づくチャンスに出会えました。
美術や芸術の世界では、物理的にも精神的にも体力的にも、続けることが一番難しいことだと思います。ただ、やはり最終的に残るのは、そこを何としてでも継続する強い意志を持った人。私の周りには、大学時代、その分野にどっぷりのめり込み、積極的に取り組んだ人が結局今も残って活躍していると感じます。学生時代、やりたいことには思いきりぶつかっていってほしいと思います。保存修復の分野でいうと、海外で活躍している日本の方も意外と多いんですよ。自分の将来像へどうやって辿り着くかというのは、ありきたりですが最終的にはやりたいことに向かって、やり続けたいか、好きか?どうかです。現役で就職するのはなかなか難しいかもしれませんが、真剣に取り組んでいけば、さまざまな方法で道は開けると思います。
――チャンスを逃さずに自分のものにできるかどうかは、どれだけ真剣に考え続けていられるかも大切ですね
野中:そうですね。一方で、文化財の保存修復という分野に長く関わっていると、保存修復家だけではない文化財の保存に関わる道もたくさんあるんだなと感じることがあるんですね。文化財というのはさまざまな立場の人たちの存在がないと護れないものだと思います。例えば、博物館や美術館では、各地域の文化財行政の方々のほか、美術輸送、展示造作、虫黴害防除、資料保存材料など、多岐にわたる専門の会社の皆さんとも一緒に仕事をします。美術輸送の分野では、美術品の梱包と輸送の資格試験もありますが、その専門の人たちの中にも、もっと保存の観点を持った人が増えたらより安全な輸送ができるのだろうと思います。また、実際に芸工大の先輩が虫黴害防除の会社に勤めていて、適切な意見をいただき助けられたこともありますね。それから市民目線で言えば、教養としての側面もありますよね。各地に文化財に詳しい人が増えたら文化財がもっと護られ、地域の活性化につながるのではないかと期待します。専門分野であるからこそ、学んだことを生かしていろんな分野にどんどん入っていけると良いなと思います。もちろん専門家として一緒に仕事できる後輩が育ってくれるのを楽しみにしていますし、さまざまな業種の仕事や環境の中で文化財保存や修復を語ってくれる後輩が増えていってくれるもの大変心強いですね。芸工大で学ぶタイミングを得られて、そこに保存修復の道を選んでくれた人がいたとしたら、広い世界と幅広い学びがあるということを知ってほしいです。
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東京国立博物館の保存修復分野で正規に雇用されているのは、野中さんを含めて二人だそうですが、実はもうお一方も芸工大の卒業生です。ほかにも、文中でご紹介した足立さんのように、保存修復家として修復作業に携わっていたりと、大きな展示の裏側で芸工大保存修復の卒業生が多数活躍しているのでした。保存修復の専門職に就くのは、決して簡単なことではありませんが、諦めずに覚悟を持って続けている卒業生が、確かに文化財を護り伝える大切な役割を担っています。
(撮影:永峰拓也、取材:井上春香、入試課?須貝)
東北芸術工科大学 広報担当
TEL:023-627-2246(内線 2246)
E-mail:public@aga.tuad.ac.jp
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