ここに一枚の木版画がある。多くの家屋が軒を連ね、その内部には伏せて休む人の姿が見える。多くの人が街中を歩き、笠をかぶる人や、荷物を背負う人、さらには馬を引く人の姿から、ここが、人々の逗留する場であることが想像される。さらに、目を凝らしてみると、画面中央の少し下、壁らしい壁が見受けられない建物があり、そこに、多くの人が集まっている。他の路面と比べて一段下がっているその矩形の空間にいる人たちは、裸であるかもしれない。脱いだ服などの荷物置場のようなものもある。
そう、ここは温泉地である。右上には、「山形縣下真景圖會」と題され、ここが「高湯村温泉場」であることが示されている。左下に書かれている「画工兼出版」は、字が小さく潰れてしまっており、私には読むことができないが、そこには、この一枚が「明治十三年九月」に発行されたものであることが記載されている。
へえ、「高湯村温泉」という温泉が山形にあるのか、という人もいると思うが、実はこの高湯村温泉こそ現在の蔵王温泉であり、画面左側に描かれている鳥居とその先の急勾配の階段を見つけたとき、あ、と思う人もいるのではないか。その名前は、現在も「高湯通り」という蔵王温泉のメインストリートのひとつの名前として残っているし、酢川温泉神社の鳥居も、おそらくその当時と同じ場所でその姿をとどめている。
この土地が「蔵王温泉」と行政上名づけられたのは、比較的近年の1950(昭和25)年のことだ。戦後間もない1950年(昭和25年)、毎日新聞社が主催して行った「新日本観光地百選」という日本の観光地100か所を選定する人気投票で、山岳部門で「蔵王山」が1位となったことから、同地では「蔵王」という地名に「改める」ようになったのである(「蔵王」自体は、修験道の本尊である「蔵王権現」に由来する)。
今回の当選を記念し、堀田村を蔵王村と、高湯温泉を蔵王温泉に金井駅を蔵王駅に、半郷を表蔵王口に改称し、山形駅前のネオン大アーチには「蔵王」と掲出する等、蔵王ブームを現出したのである。
(伊東五郎編「「蔵王」の名称に改む」『蔵王五十年の歩みとスキーの発達』山形市蔵王クラブ、1967年)
少しややこしい話になるが、この木版画に描かれている「高湯村」は、1889(明治22)年の町村制の施行によりその後「堀田村」の一部となり、その堀田村が蔵王村に改称される…という経緯がある。
今回、山形ビエンナーレ2024に参加していただくアーティストの永岡大輔さんは、最近、「子どもの頃、夏になると親戚と連れ立って通った蔵王温泉の共同浴場。当時は蔵王温泉のことを高湯と呼んでいた。今はこの温泉街は随分静かになり、浴場の周辺も変わったけど、ここに湯があり浴場があるのは変わらない」とInstagramに書いていらっしゃって、永岡さんは1973年生まれであるから当然その幼少期は「高湯」という行政上の名称ではなかったわけだが、しかし、「土地の名前」というのは、そういう区分とは別にして、その風景とともに人の記憶に残り続ける。
ビエンナーレを準備する中で、私は「蔵王温泉以前の高湯温泉」にも関心を向けるようになっていて、その過程で手に入れた観光目的の風景図やパンフレットに、こういったものがある。
銅版画による鳥瞰図《高湯温泉場全圖》(1901年)は、「朝一規内」という画家の手によるものと記載があるが、詳細は残念ながらわからない。現在の高湯通りから酢川温泉神社までの通りがとても大きく描かれ、その両サイドには多くの旅館がひしめき合っている。「高見屋」「近江屋」「海老屋」「松金屋」「若松屋」など、現在も営業をされている旅館の往時が見てとれることや、温泉地らしいというか、「室内遊戯 空気銃」という遊び場もあって見ていて面白い。
ところで、お気づきの人もいると思うが、《高湯温泉場全圖》当時、蔵王にゲレンデはまだない。伊東五郎編『蔵王五十年の歩みとスキーの発達』(山形市蔵王クラブ、1967年)の「山形スキーの歴史」によれば、山形にスキーがもたらされたのは1911(明治44)年のことであり、山形師範学校教諭の目黒乙次郎が、新潟県高田第五十八連隊に配属されていたオーストリア?ハンガリー帝国の軍人であるテオドール?エドラー?フォン?レルヒ少佐らによる講習?指導を受講したことが端緒とされている。
その経緯から、山形でスキーが広まっていった先駆は、山形師範学校と山形連隊であったといい、「郷里や赴任地で一挺のスキーをもとに手製スキーを始め、山村程これを容易に製作してすべりまわしたのである」とあるが、1915(大正4)年の頃の記述には、「スキー場と言つても特設のものではなく、杉林や雑木林の伐り跡をさがしたり、竜山麓二本松野原等は好適地であつた」など書かれていて、当たり前のように見ているいまの蔵王とは違う風景を、道なき道で行われていたスキーの模様を頭に想像しながら思い描きたくなる。
蔵王とスキーの歴史については、広大なテーマであるため私の力では深入りできないが、パンフレットの『酢川高湯温泉』(高湯温泉旅館組合、1930年)には、裏表紙にスキーをする人の姿が描かれていて、なんともかわいらしい。現在のスキーはカービングスキーが主流で、トップとテールに対してウェストが細くなっているため曲がりやすい、というものだが、当然、この頃のスキーの板はまっすぐだ。
さて、『酢川高湯温泉』で注目したいのは、表紙と裏表紙の関係で、表紙には「高湯温泉」(現?蔵王温泉)がその周囲の山並みとともに描かれ、裏表紙にスキーが描かれているということで、つまり、ここはスキー場以前にまず温泉地であるということだ。いまでこそ冬のイメージが強い蔵王温泉は、西暦110年開湯と言われ、スキーがもたらされるずっと前から、「高湯」と呼ばれ、温泉をはじめとする自然こそがこの土地の重要な資源だった。
それはいまも変わることはないけれども、土地の名前の移り変わりや、観光パンフレットなどの印刷物での土地のイメージの変遷は、こうしていくつか見てみただけでも、それぞれの時代で、蔵王という場所に人が何を求めてきたのか、その一端を知らせてくれる。そのことは、言うまでもなく山形ビエンナーレ2024も例外ではなく、芸術祭を通し、私(たち)はどのように蔵王を見つめているのか、見つめることができているのか、ということが、いま見えることができていないものはなんなのか、ということからの反射とともに、問われているのだと思う。
(文?写真:小金沢智)
関連ページ:
山形ビエンナーレ2024
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小金沢 智(こがねざわ?さとし)
東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース専任講師。
キュレーター。1982年、群馬県生まれ。2008年、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。専門は日本近現代美術史、キュレーション。世田谷美術館(2010-2015)、太田市美術館?図書館(2015-2020)の学芸員を経て現職。
「現在」の表現をベースに据えながら、ジャンルや歴史を横断するキュレーションによって、表現の生まれる土地や時代を展覧会という場を通して視覚化することを試みている。
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