永沢駿|明治??正期の?村財政の考察―秋?県横?市?内地域を例にー
秋田県出身
岡陽一郎ゼミ
明治期を迎えた国内は、近代国家の成立期であり、統治構造の整備が十分ではない時期であり、そのため、国内の統治構造の末端に当たる地方行政では、めまぐるしい制度改正が見られた。明治11年には地方三新法制定により、政府は、国政委任事務の処理を地方に分担させる状態を作り上げた。明治30年代以降には、日露戦争による経済的困窮が、国民の租税負担額の増加を招いた。このような背景の中で、明治39年に、戊申詔書が渙発され、勤倹と倹約を国民に促した。後にこの活動は地方改良運動として発展した。このように明治期の地方財政の動きは、様々な広がりを見せていた。実際に、地方及び、町村規模での行財政の研究でもその視点は、多岐にわたる。
そこで本研究では、東北の一地域を対象として、町村財政の実態を探り、事例研究の一助となる事を目的とする。
本研究の対象地域とした秋田県横手市山内村は、明治22年に開村した村であり、現在の秋田県横手市山内地域に相当する。また、横手市内には、山内村開村以降の「山内村村会議録」がほぼ連続的に保存されており、明治?大正期の村の情勢が読み取れる。本研究では、同資料に記録されている戸数割の収入額の推移をまとめ、それらを調査視点として、明治?大正期の村内の財政状況を分析する。
本研究で分析する戸数割とは、戸数割は、明治11年の地方税規則によって新設された府県の統一税である。当税目の課税金額は、町村の戸数に応じて府県が決定していたが、村民個人への賦課基準については各市町村にゆだねられており、当税目の課税に関する曖昧性が指摘されてきた。同様に、これまでの先行研究では、「当税目は村の税収入における主要な財源であった」事。「賦課標準が国の法令により、規定されている物ではなく、伸縮自在な税目であった」事の二点が特徴として指摘されてきました。つまり、当税目は、各府県及び、市町村の有事の際には、制限なくその納税額を増やし続けるものだった。山内村においても、同様の特徴が確認できた。当村の戸数割は「村税」に含まれる税目であり、「村税」の収入総額の内、大半を占めていた(図1)。本研究では、その推移の中で収入額の変化が著しかった年の出来事を、自治体史や「山内村村会議録」をはじめとした複数の資料を元に分析した。
1. 明治26年から大正13年までの山内村における、税収入総額と戸数割の推移