芦野七海|村山の農兵取立てと地域社会 -農兵頭?堀米四郎兵衛を中心に-
山形県出身
岡陽一郎ゼミ
農兵とは、幕末から明治初期にかけてつくられた農民兵を指す。文久2(1862)年の幕府の軍制改革により、各地で採用された。なかでも出羽国村山郡は、農兵研究の最前線に位置付けられてきた(図1)。しかし、組織の中核を担う農兵頭の分析は、当地で初めて取立てられた文久3(1863)年前後に関心が向けられており、後年の足跡には深く言及されていない。加えて、明治初期に組織された郷兵との連続性の検討も不十分である。そこで本研究では、文久3(1863)年から明治初年までの農兵を追い、取立ての意義を検討する。具体的には、組織の中心であった堀米四郎兵衛の日記や書簡から、彼の人物像や組織の役割を探る。
幕末から明治初期の農兵組織をみると、村山郡には3つの画期がある。1つは文久3(1863)年9月に寒河江?柴橋代官所で取立てられた農兵であり、2つ目は慶応2(1866)年に再編されたものである。一揆が頻発する中、治安維持を目的に農兵頭20人(図2)を任命し、配下となる農民を選ばせた。これらに次ぐ3つ目の画期が、明治の郷兵取立てである。明治元(1868)年9月、戊辰戦争が終結したものの治安は不安定であった。そのような中、柴橋民政局のもと郷兵が組織され、悪徒取締りを行った。続いて、農兵頭?堀米四郎兵衛の人物像を探った(図3)。その結果、武具を長期間収集し続け、個人の範囲に留まらず藩の買入にも介入していた点や、知識人と交流を重ねていた点が明らかになった。ここから、四郎兵衛が武器や兵術に無知であったとは考えにくい。
本研究では、文久3(1863)年から明治初年までの農兵を追い、取立ての意義を検討した。四郎兵衛の武具収集や交流関係を分析すると、一定の知識をもち、活動に参加していた。農兵取立ては、組織作りにおいて農兵頭に大きな権限があった点から、彼らの知識やネットワーク、資金力が遺憾なく発揮され、スポットが当たる機会でもあった。
また、明治初年までの農兵組織を概観すると、いずれも不穏な状況で時代に関係なく、組織されていた。ここから農兵とは、不安定な情勢の中、治安を維持する部隊への需要が高まり、適任者が中心に登用され、地域の声に応えていった組織なのではないか。その1人が堀米四郎兵衛であった。そう考えると、家柄やリーダーの素質に恵まれた、彼の地域内での立ち位置?人物像が浮かび上がってくる。