大友竣平|人名と避諱に関する研究ー米沢藩上杉家を事例にー
山形県出身
松田俊介ゼミ
本研究は、近世日本の諸藩において、強力なタブーを基盤としたイミナ(諱?忌み名)が、どのように根差していたのかを問う視座から、かつて出羽国米沢に藩庁を置いた米沢藩における避諱の傾向を取りあげて、分析?考察を試みたものである。
漢字文化圏では、忌む対象となる尊貴者の実名ことをイミナと呼び、これを直称することを避ける避諱が発展した(図1)。原義では、実名または本名を、その死後に忌むことから、それらを死後になってからイミナと呼ぶことを指す。しかし、実質的には同一の呼称を、時期的に区別したに過ぎないことから、後には生前においても実名のことをイミナと呼んでいる(玉村竹二「いみな 諱」『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、pp.803-804)。日本では、平安時代から江戸時代までを中心に、尊貴者に当たる天皇?将軍?藩主らの名前を卑者が敬避して名付け、あるいは改名したとする事例が存在している。しかし、時代や地域によって回避すべき文字に異同があるのは当然として、施行の厳格さにおいても差異があることから、諸地域に迫った検討は極めて少ないのが現状である。管見の限りでは、米沢藩でも避諱に関する検討は行われていない。米沢藩は、1601(慶長6)年から1871(明治4)年にかけて、上杉氏が治めた藩として知られているが、その石高の割に合わないほど多くの家臣が存在するといった他藩でも類を見ない特徴を持っている。それも、藩主へのタブーの強まりを助長させるようなヒエラルキー的組織構造を成しており、藩内における避諱の度合いは注目に値する。一方、米沢藩を含む置賜地方全域の名付けに注目すると、藩祖上杉謙信(輝虎)の諱字である虎字が多く使用されており、避諱と逆行した傾向も見て取れる(図2)。
以上から、本研究は、米沢藩における避諱の様態を明らかにすることで、これまで曖昧さをはらんできたケーススタディをより明確にし、研究の蓄積に寄与することを主たる目的としたものである。本稿では、近代以前の日本における人名とその名付けの用法を研究の基礎として論じていくとともに、米沢市立図書館所蔵の史料調査と有識者への聞き取り調査の実施によって得られた米沢藩の避諱の傾向を分析しつつ、議論を提示していく。