文芸学科Department of Literary Arts

枝野郁美|きのうのゆめ
栃木県出身
野上勇人ゼミ

<本文より抜粋>

  「海のガラス」

 グラスタンブラーが割れた。うっかり落としてしまったのだ。青く、波のような白いラインの入ったもの。波打ち際を思わせる琉球グラス。
 暑くて、喉がどうしても乾いていた。ペットボトルのサイダーと氷を入れて、からからと音を鳴らして遊んだ。一口飲めば甘い味。テーブルの上にグラスを置いた。
 どうしようもない暑さの中で、蝉の声が響く中ぼうっと立っていた。窓から濃い緑が見える。十年前もこんなに暑かっただろうか。そういえば小学生の頃は夕立が本当に多かった。雨さえ降ればこの暑さもマシになるだろうか。
「ねぇ」
 誰かに呼ばれて振り返った。肘が机に当たり、倒れたグラスが床に砕け散った。
 二十歳の誕生日に、津軽びいどろと共に貰った大切なものだった。サイダーが足にかかる。青い破片と白い破片が散らばって、シュワシュワと炭酸が泡立った。最後まで海みたいだなと思った。ちくり、足に刺さった破片が少し痛かった。
「あーあ」
 呼んだ声が残念そうにしていた。
「大切にしていたのにねぇ。それとも、そうでもないから割ったの?」
 うるさいと感じながらも、声の相手をしてやろうと後ろを向く。誰もいない。
「割れちゃったものは仕方ないけどさ。そして新しいやつ買うんでしょ?」
 また後ろから声が聞こえた。視界には何も映らない。
「買うけどさ、関係ないじゃん」
「次も割るよ。絶対」
 探せども見えない姿に若干の苛立ちを覚えながらも箒を探した。いや、それよりも掃除機を探すべきだ。大きな破片は拾えばいい。
 掃除機は隣の部屋に置いてあった。一つ、二つと吸いきれない破片を拾った。
「海のガラスなんだから海に帰して欲しいな」
 さっきと同じ声だった。本当にどこからしているんだろうか。この小さい子供のような、妖精みたいな声の主は。
 ふと気がついた。あぁ、あの子か。青くて小さい妖精。その子の声を借りているのか、このグラスは。合点がいった。見ようとしていなかったのは自分だったのだ。
「ここって海がないんだよね。自分で行くしかないかな」
「そんなことより、ビニールに早く集めなきゃ」
「海から生まれたんだから海に帰らせてよ」
 確かにその通りだよなと、置いた破片を見た。いつの間にか全部消えていた。
 なぜだかとても寂しくて、後悔した。自然とは程遠いデザインで、割れにくいコップだったらこんな気持ちにならなかったのだろうか。濡れた床を拭きながらそう思った。