茶の湯から見る伊達綱村の人物像-『伊達綱村茶会記』を紐解く-
鈴木開
宮城県出身
竹原万雄ゼミ
本研究は、伊達家第4代藩主?伊達綱村の茶会の記録がまとめられた『伊達綱村茶会記』をもとに、茶会において参加者の身分?役職?地域などを分析することにより、伊達綱村の茶の湯および伊達綱村の人物像を明らかにするものである。
伊達綱村は伊達家の中でも特に茶に対して強い情熱を持っていた。そのため、大名数寄者として幾多の茶の湯の事績を残している。そうした綱村の茶の湯に関する資料の中で、その核心を突くものとして挙げられるのが『伊達綱村茶会記』である。『伊達綱村茶会記』には元禄6(1693)年から宝永2(1705)年までの約13年間に渡り開催された1300回以上にも及ぶ茶会の記録が記されており、全17巻と第1巻?第4巻の註解で構成されている。しかし、茶会記の筆者は不明であり、伊達家の記録係もしくは茶頭が書いたものと推測されている。
本研究ではこの『伊達綱村茶会記』をもとに、全17巻のうち第1巻から第3巻を扱う。茶会ごとで参加者の役職や出身?地域などをまとめた表を作ることにより、茶会記における参加者の分析を行い、伊達綱村の茶の湯および伊達綱村の人物像を明らかにしていく。
綱村の茶会において、「稲葉家」?「田村家」という人物が頻繁に参加しているのが特徴的だった。田村家は、仙台藩の支藩の一関藩であり、伊達家の領内分家である。仙台藩が一関藩を再興させた経緯があり、綱村との関わりも深かった。稲葉家は、代々幕府重職を務め、相模小田原藩?下総国佐倉藩の藩主を担った家系である。相模小田原藩第2代藩主?稲葉正則は綱村への後見人や開発援助を行った。また、正則の娘?仙姫は綱村の妻であるため、綱村と稲葉家は親戚関係にあった。
『伊達綱村茶会記』において、参加者については、役職は藩主?藩士?家臣?邑主?修験?儒者?医師?学者?連歌師?茶人など、地域は仙台藩や江戸をはじめ、相模小田原藩?田村一関藩?京都?阿波など、全国から様々な役職の人物が見られた。また、仙台城開催の茶会では相模小田原藩や下総国佐倉藩から稲葉家の人物が多く招かれ、江戸邸開催の茶会では一関藩から田村家の人物が多く招かれていたなど、仙台城と江戸邸でも様々な違いがあった。特に綱村と稲葉家?田村家との交流が垣間見えた。『伊達綱村茶会記』を通して、綱村の茶会に対する情熱、様々な人物との交流を重んじるという人物像が浮かんできた。仙台藩伊達家の茶の湯そして伊達綱村の人物像を窺えた.